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1962年9月18日
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福岡で生まれる。顔は細長くサルが生まれたかと思われた |
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1966年
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福岡市南区の海星女学院付属マリア幼稚園に通い始める。
クラスで一番足が速く、運動会は大はしゃぎだった。
工作も、いつもなぜか、負けじと一番大きい物を作っていたよう。 |
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1968年
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海星女学院付属小学校に第二回生として入学。
1学年1クラスで20人位だったので、本当にアットホームだった。
昼休み時間にする野球も、1学年では人数が足りないので、三学年合同で遊ぶようなことが多かった。 |
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1975年
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四国は愛媛県の愛光学園中学校に入学。
12才にして親から離れて暮らし、寮生活を始める。
ホームシックも初日だけ。すぐに仲間ができ、兄弟のように過ごす。 |
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1978年
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引き続き愛光学園の高等部に進む。
中学・高校共、男子校だったので、色気がほとんど無いまま男同士で未来を語り合っていた。でも中学で麻雀、高校でパチンコとあまり良からぬ事にもふけっていた。受験校ではあったが、とても自由気ままに過ごせた時代だったように思う。ジャズ喫茶通い・映画館通いをしたのもこのころだった。フランスパンを持ち込み、3本だて500円のB級映画を毎週のように見まくっていた。 |
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1981年
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九州大学工学部建築学科に入学。
地元に戻ってくる。ソフトボール部に入り、遊ぶことはほとんどせず、部活に打ち込む。福岡地区で優勝し、西日本大会に出場したことも。この時は愛知県まで遠征した。講義が休講のとき、時には自主休講して、時々麻雀も引き続きたしなむ。バイクの免許を取り、よくツーリングにも行った。
が、悲しいかな原付は私だけ。必死になって皆の後ろをついていった。 |
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1985年
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九州大学教養部図学校教室の助手となる。
当然講義の助手もするのだが、なんてったて若干22歳。学生と2,3歳しか変わらない。先生というより兄貴というような感じ。学生たちと建築の自主勉強と称して小旅行もした。まだまだ青春しているという感覚だったなあ。 |
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1988年
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M西岡弘建築工房に入社。
自分で設計をして建築したい、という思いが強く設計事務所の門をたたいた。毎夜の11時まで仕事をしてもあまり苦にはならなかった。
西岡さんが磯崎新氏のもとで20年がんばってこられて、そこでの刺激がこの事務所にも充満していたように思う。僕にとっても大変な魅力となっていた。
そのご縁あって、磯崎氏の大分別府のビーコンプラザの仕事を手伝わせていただくことになり、別府に2年間家族(妻と可愛い二人娘)とともに移り住んだ。結婚して4年目だった。 |
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1996年
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西岡事務所を退社し、埼玉県深谷市に移り住む。
というのは、この地に日本の保育界を代表する、「さくらさくらんぼ保育」の総本山があり、保母だった妻がぜひとも本場で学びたいと言い出したためだった。
僕は仕事のあても無く、妻に引っ張ってこられ、さて何をするか、という時に学童保育所の指導員を探していると、さくらんぼ保育園の関係者から言われ、ぶらぶらしてても仕方が無いと言うことで受けることになった。一級建築士を持った学童指導員の誕生である。
人生とは本当に面白い。その2年後、その学童が立ち退きの憂き目に会い、移転建築を余儀なくされ、ここで昔取ったきねづかで僕が設計をすることになった。
これがきっかけとなり、忘れかけていた建築大好き少年の心がむくむくと沸き起こってきた。まだ居たっかた妻、友達と離れたくなかった子ども達を押し切り、福岡に戻ることを決意するのだった。
深谷に来て4年が過ぎていた。 |
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1999年
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福岡にて、建設業を営む親父を手伝いながら、建築設計事務所を始める。
その後、深谷にいたのが縁で、次から次へと保育園の設計の依頼を受けることになる。人生というのは、本当にわからないものだなあとつくづく思います。縁のつながりの大切さを本当に実感する今日この頃です。 |
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